祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社の祭礼として、毎年7月1日から31日まで1か月間にわたって行われる日本を代表する祭りです。なかでも17日と24日の山鉾巡行(やまほこじゅんこう)は、ベルギーのタピスリーやペルシア・中国の織物で飾られた豪華絢爛な山鉾が都大路を進む圧巻の光景で、ユネスコ無形文化遺産にも登録されています。葵祭五山送り火と並ぶ京都三大祭のひとつです。
この記事では、祇園祭の基本的な意味や歴史はもちろん、祭の根底にある牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊(スサノオ)の信仰、全国各地に広がった祇園信仰のネットワーク、山鉾巡行の具体的な見どころまで、祇園祭を多角的に解説します。1,100年以上の歴史が凝縮されたこの祭りの奥深さを、ぜひ感じてみてください。

CHAPTER 01
祇園祭とは?基本の意味

祇園祭は、疫病や災厄を鎮めるために始まった御霊会(ごりょうえ)を起源とする神事です。八坂神社は明治維新まで「祇園社」と呼ばれており、祭礼も「祇園御霊会」と称されていました。「御霊」とは非業の死を遂げた人々の怨霊のことで、手厚く祀ることでかえって防疫の神となり、人々を守ってくれるという信仰に基づいています。
祇園祭
八坂神社の祭礼。7月1日〜31日の1か月間にわたる京都最大の祭り
御霊会
怨霊を鎮めて疫病を防ぐための神事。祇園祭の原型
山鉾巡行
装飾を施した山鉾が都大路を巡行する祭のハイライト。前祭(17日)と後祭(24日)の2回
稚児
長刀鉾に乗り、注連縄を太刀で切って巡行の開始を告げる少年

CHAPTER 02
祇園御霊会の由来と歴史

祇園御霊会の始まりは、清和天皇の貞観11年(869年)にさかのぼります。当時、京の都では疫病が猛威を振るっていました。これを鎮めるため、神泉苑(しんせんえん)に当時の国の数にちなんだ66本の鉾(ほこ)を立て、八坂神社(祇園社)の神輿(みこし)を迎えて御霊会が行われたのが最初とされています。
実は祇園御霊会に先立つこと6年、貞観5年(863年)に神泉苑で初めての御霊会が催されていました。「日本紀略」によれば、このとき祀られたのは早良親王(さわらしんのう)や伊予親王など、政変で非業の死を遂げた六柱の御霊です。疫病の流行を怨霊の祟りと捉え、読経(どきょう)や雅楽で慰撫しようとしたのが御霊会の原型であり、これが祇園祭全体の源流となりました。貞観11年の祇園御霊会では、全国の国の数に合わせて66本の鉾を立てるという壮大な規模へと発展します。さらに「藤原実資の小右記」には、長保元年(999年)の祇園天神会の記録が残されており、10世紀末にはすでに大規模な祭礼として定着していたことがうかがえます。
御霊会が盛んに行われるようになった背景には、平安京を繰り返し襲った疫病の猛威があります。当時の人々は、天然痘や赤痢などの感染症を怨霊の祟りと捉えていました。政争に敗れて非業の死を遂げた皇族や貴族の怨念が、目に見えない病として都を襲うと信じられていたのです。そのため、怨霊を鎮めて御霊(ごりょう)として祀り上げることが、最も有効な防疫策と考えられました。貞観年間(859〜877年)は特に疫病が頻発した時期であり、この時代に御霊会が制度化されたことには必然性がありました。
天禄元年(970年)以降は毎年6月の恒例行事となり、賀茂川の河原への神輿渡御が定着しました。次第に神輿に付随する山車(だし)や囃子が洗練され、室町時代には町衆(まちしゅう)が競い合うように豪華な山鉾を造営するようになり、芸能も加わって祭の形が整いました。
しかし、応仁の乱(1467〜1477年)で京都の町は焼け野原となり、祭は一時中断します。その後、16世紀初頭に下京の町衆が結束して山鉾を再興し、都市の復興と心意気を示す祭りとして蘇りました。この町衆による自治的な運営は現在まで受け継がれており、祇園祭が「町衆の祭」と呼ばれるゆえんです。
16世紀初頭に再興された祇園祭は、安土桃山時代から江戸時代にかけて黄金期を迎えます。各山鉾町は財力と技術を競うように山鉾を豪華にし、南蛮貿易で手に入れたゴブラン織りや中国の刺繍裂を惜しみなく飾りました。山鉾の懸装品の中には、16世紀のベルギー製タピスリーがそのまま保存されているものもあり、当時の国際交易の証として美術史的にも高い価値を持っています。町衆はこうした文化投資を通じて自治意識を高め、祇園祭は単なる宗教行事を超えた都市の自治と文化を象徴する祝祭へと成長していきました。
新米パパ
祇園祭って楽しいお祭りのイメージでしたが、もともとは疫病を鎮めるための神事だったんですね。
カゾイロ博士
そうなんです。怨霊を手厚く祀ることで守り神に転じるという「御霊信仰」が根底にあります。現在も7月中の神事には疫病退散の祈りが込められているんですよ。

CHAPTER 03
牛頭天王と素戔嗚尊 ── 祇園社の祭神

祇園社(現・八坂神社)の祭神として長く信仰されてきたのが牛頭天王(ごずてんのう)です。牛頭天王はもともとインドの祇園精舎の守護神とされ、仏教とともに東アジアへ伝わりました。「祇園」という名称自体が、この祇園精舎に由来しています。また、「日本書紀」には素戔嗚尊(スサノオ)が新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降り立ったという記事があり、朝鮮半島の「牛頭山」との関連も古くから指摘されてきました。大陸・半島の信仰と日本神話が交差する地点に、祇園信仰は立っているのです。
日本に伝来した牛頭天王は、やがて素戔嗚尊(スサノオ)と同一視されるようになりました。これは神仏習合と呼ばれる日本独特の宗教現象のひとつです。牛頭天王は疫病神であると同時に、疫病を払う神でもあるという両義的な性格を持っています。疫病を引き起こす力を持つからこそ、その力を制御すれば最強の守護神となる――この逆転の発想こそが御霊信仰の核心であり、祇園祭の根底に流れる思想です。
牛頭天王とスサノオの習合には、両者の神話に共通する「異界を旅する神」という性格が大きく作用しています。スサノオは高天原を追放されて出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治しました。一方、牛頭天王もまた流浪の旅の末に蘇民将来と出会い、疫病退散の力を授けます。いずれも放浪と試練を経て守護神となるという物語構造を持っており、これが両者の同一視を自然なものにしたと考えられています。京都の人々にとって、スサノオ=牛頭天王は「荒ぶる神が鎮まって都を守る」存在であり、祇園祭の本質そのものでした。
牛頭天王(=スサノオ)にまつわる伝説に「蘇民将来(そみんしょうらい)」の物語があります。旅の途中で宿を求めた牛頭天王を、裕福な弟・巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、貧しい兄・蘇民将来は温かくもてなしました。牛頭天王は礼として蘇民将来に「茅(ちがや)の輪を腰に着けよ。そうすれば疫病から免れるであろう」と告げます。この伝説は、祇園祭の最終日に行われる疫神社夏越祭の茅の輪くぐりや、各地の神社で行われる夏越の祓の信仰基盤と深く結びついています。「蘇民将来子孫也」と記された護符は現在も八坂神社の粽(ちまき)に添えられ、祇園祭が単なる祭礼ではなく疫病退散の祈りそのものであることを物語っています。
蘇民将来の伝説は「備後国風土記」逸文にその原型が記されており、日本各地に類話が伝わっています。とりわけ注目すべきは、この伝説が夏越の祓(なごしのはらえ)と深く結びついている点です。多くの神社で6月末に行われる茅の輪くぐりは、蘇民将来が牛頭天王から授かった茅の輪に由来するとされています。祇園祭が7月に行われるのも、旧暦6月の夏越の祓と時期が重なっており、夏の疫病退散という共通の信仰基盤の上に成り立っているのです。八坂神社で授与される粽には「蘇民将来子孫也」の護符が添えられますが、これは玄関先に飾ることで一年間の厄除けになるとされ、京都の家々の軒先で今も見ることができます。
明治元年(1868年)、新政府は神仏分離令を発布しました。これにより、仏教的な存在である牛頭天王は祭神から排除され、祇園社は「八坂神社」と改称、祭神は素戔嗚尊(スサノオ)に統一されました。千年以上にわたって信仰されてきた牛頭天王の名が公式に消えたのは大きな転換でしたが、疫病退散を祈る祭の本質は変わることなく受け継がれています。
神仏分離の影響は祇園社だけにとどまりませんでした。全国に数千あった祇園社・天王社は軒並み改称を迫られ、「八坂神社」「須賀神社」「素盞嗚神社」など、素戔嗚尊を祭神とする社名に変わりました。それでも民間の信仰の中では「お天王さん」「祇園さん」という呼び名が根強く残り、牛頭天王への信仰は完全には消えませんでした。祇園祭の山鉾に取り付けられる装飾品の中には、神仏習合時代の仏教的意匠を残すものもあり、祭そのものが神仏習合の記憶を伝える文化財としての側面も持っています。
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INFO
辟邪絵(へきじゃえ)と牛頭天王
平安時代には疫病退散のために辟邪絵が描かれました。悪鬼を退治する善神を描いたこの絵には、牛頭天王に仕える十二神将の姿も見られます。目に見えない疫病を鬼の姿に重ね、それを調伏する神を絵に描くことで人々は安心を得たのです。現存する辟邪絵は国宝に指定されており、日本人の疫病観を今に伝える貴重な資料です。
新米パパ
牛頭天王って疫病を起こす神様なのに、疫病を防ぐ神様でもあるんですか? なんだか不思議ですね。
カゾイロ博士
「病をもたらす力があるからこそ、その力で病を退けることもできる」という考え方です。天然痘の神を祀る信仰なども同じ構造ですね。蘇民将来の護符が今も粽に入っているのは、その信仰が生きている証拠なんですよ。

CHAPTER 04
山鉾巡行の見どころ

祇園祭の最大の見どころは、17日の前祭(さきまつり)24日の後祭(あとまつり)で行われる山鉾巡行です。現在、山鉾は合計33基あり、そのうち前祭で23基、後祭で10基が巡行します。 祇園祭の山鉾巡行・四条通を進む山鉾
山鉾は高さ約25メートル、重さ約12トンにもなる巨大な曳き山で、「動く美術館」とも称されます。胴懸(どうかけ)や見送(みおくり)には、16世紀以来収集されたベルギー製のタピスリーやペルシア絨毯、中国・インドの染織品が飾られており、東西交流の歴史を今に伝えています。
山鉾には大きく分けて「鉾」と「山」の2種類があります。は真木(しんぎ)と呼ばれる長い柱の先端に鉾頭(ほこがしら)を戴き、高さ約25メートルにも達する大型の曳き山です。鉾の上には囃子方(はやしかた)が乗り込み、巡行中に祇園囃子を奏でます。一方、は松の木を立てて御神体の人形を飾る比較的小型のもので、舁き山(かきやま)と曳き山(ひきやま)に分かれます。鉾が9基、山が24基の計33基が現在の祇園祭を構成しており、それぞれの山鉾町が代々受け継いできた懸装品や御神体によって、一基として同じものはありません。
山鉾を飾る懸装品の中には、重要文化財に指定されているものも少なくありません。鶏鉾の見送には16世紀ベルギー製の毛綴織「トロイア戦争図」が使われており、ヨーロッパでも現存例が少ない貴重な作品です。函谷鉾(かんこぼこ)の前懸には旧約聖書の創世記を題材にしたタピスリーが掛けられるなど、山鉾巡行はまさに世界の染織美術の野外展覧会ともいえる光景を生み出しています。
巡行の先頭を行くのは長刀鉾(なぎなたぼこ)です。鉾の上に乗った稚児(ちご)が、四条麩屋町の注連縄(しめなわ)を太刀で切り落とす「しめ縄切り」の瞬間は、巡行開始を告げるクライマックスとして毎年大きな歓声に包まれます。
長刀鉾が常に巡行の先頭を務めるのは、「くじ取らず」と呼ばれる特別な慣例によるものです。山鉾の巡行順序は毎年7月2日の「くじ取り式」で京都市役所にて抽選で決められますが、長刀鉾をはじめとする一部の山鉾はくじを引かずに順番が固定されています。前祭では長刀鉾が必ず先頭、函谷鉾(かんこぼこ)が5番目、放下鉾(ほうかぼこ)が21番目、岩戸山が22番目、船鉾が最後尾と定められています。この「くじ取らず」の制度は、明応9年(1500年)に山鉾の巡行順をめぐる争いを解決するためにくじ取り式が始まった際、特に格式の高い山鉾に認められた特権が現在まで続いているものです。
33基の山鉾にはそれぞれ固有の御神体と物語があります。たとえば船鉾(ふねほこ)は神功皇后の新羅出兵伝説をテーマとし、鉾全体が船の形をしています。蟷螂山(とうろうやま)にはからくり仕掛けのカマキリが乗り、御所車の上で羽を動かす姿が人気です。また、後祭の最後を飾る大船鉾(おおふねほこ)は幕末の大火で焼失した後、2014年に約150年ぶりに復興されたことでも話題を呼びました。
TIP
山鉾巡行の見どころのひとつが「辻回し(つじまわし)」です。交差点で巨大な鉾の方向を90度転換する技で、車輪の下に青竹を敷き、水をかけて滑らせながら豪快に回転させます。四条河原町や河原町御池の交差点が観覧の人気スポットです。

CHAPTER 05
祭の主な行事と日程

祇園祭は山鉾巡行だけでなく、7月1日から31日まで多彩な神事・行事が続きます。主な日程は以下のとおりです。
7月1日の「吉符入(きっぷいり)」で祭の幕が開き、各山鉾町で神事の打ち合わせが始まります。10日には神輿を鴨川の水で清める「神輿洗い」が四条大橋で行われ、14〜16日の前祭宵山では山鉾に提灯が灯され、駒形提灯が並ぶ風情ある夜の町を楽しめます。
17日の前祭巡行に続き、24日には後祭巡行が行われます。後祭では大船鉾(おおふねほこ)をはじめとする10基が巡行し、前祭とは異なる落ち着いた雰囲気を味わえます。そして31日の「疫神社夏越祭」で茅の輪をくぐり、1か月にわたる祭が締めくくられます。
後祭の巡行は、実は2014年に49年ぶりに復活したものです。もともと祇園祭は前祭と後祭の2回に分けて巡行が行われていましたが、1966年(昭和41年)に交通渋滞の緩和や観光振興を理由に前祭に統合され、全山鉾が17日にまとめて巡行する形になっていました。しかし、本来の祭の姿を取り戻すべきだという声が高まり、2014年に後祭が復活。同年には約150年ぶりに再建された大船鉾も巡行に加わり、大きな話題となりました。後祭の復活により、前祭とは異なる落ち着いた雰囲気の中で山鉾をじっくり鑑賞できるようになり、祇園祭本来の奥行きが取り戻されたと評価されています。
宵山期間中に各山鉾町で行われる「屏風祭(びょうぶまつり)」も見逃せません。旧家が秘蔵の屏風や美術品を玄関先に飾り、道行く人に公開する風習で、町衆の文化と誇りを今に伝えています。また、鉾建て(10日〜)の過程も見学可能で、釘を一本も使わず縄だけで巨大な鉾を組み上げる「縄がらみ」の技法は伝統建築の技が凝縮された職人芸です。完成した鉾に登って内部を見学できる「鉾の拝観」は、祭の期間中ならではの貴重な体験です。
宵山の夜を彩るもうひとつの主役が、各鉾から響く祇園囃子(ぎおんばやし)です。「コンチキチン」と表現される鉦(かね)の澄んだ音色に、笛と太鼓が加わる独特の旋律は、京都の夏の音風景として広く親しまれています。囃子方は各鉾町の男性が務め、幼少期から稽古を重ねて技を継承します。演奏される楽曲は鉾ごとに異なり、巡行の場面に応じて「渡り囃子」「戻り囃子」などを使い分けます。宵山の期間中、提灯に照らされた鉾の上から流れるコンチキチンの調べは、祇園祭の情緒を最も身近に感じられるひとときです。

CHAPTER 06
全国に広がる祇園信仰

京都の祇園社から広まった祇園信仰は、全国各地に祇園社の勧請(かんじょう)という形で伝播しました。疫病に苦しむ地方の人々が京都の祇園社から御分霊を迎え、自分たちの土地にも祇園社を建てたのです。その数は全国で約3,000社にのぼるとも言われ、それぞれの土地で独自の祭礼が発展しました。いずれの祭りにも共通するのは、疫病退散の祈りという祇園信仰の核心です。
祇園信仰が地方に広まった経緯はさまざまです。京都との交易で往来した商人が信仰を持ち帰った例、領主が都の文化を取り入れるために勧請した例、そして疫病が流行した際に京都の祇園社に救いを求めた例などがあります。いずれの場合も、疫病退散の霊験が人々を動かす原動力でした。地方に根づいた祇園祭は、それぞれの風土や歴史と結びつきながら独自の発展を遂げています。以下に、代表的な祇園系祭礼をまとめます。
全国の主な祇園系祭礼
祭礼名所在地時期特徴
博多祇園山笠福岡県福岡市7月1日〜15日「追い山笠」で知られるスピード感あふれる山笠の奉納走
津島天王祭愛知県津島市7月第4土・日曜日天王川に浮かぶ巻藁船の提灯が幻想的な水上の祭り
川越まつり埼玉県川越市10月第3土・日曜日「関東の祇園祭」とも呼ばれ、豪華な山車の曳き回しが見もの
石岡のまつり茨城県石岡市9月敬老の日を含む3日間関東三大祭のひとつに数えられ、幌獅子が街を練り歩く
祇園祭の山鉾が纏う豪華な装飾はもともと「風流(ふりゅう)」と呼ばれる芸能的な見せ物から発展したものです。風流とは「人目を驚かす趣向を凝らした出し物」を意味し、室町時代には踊りや囃子を伴って盛んに行われました。この風流の精神は地方にも伝わり、独自の芸能として花開いています。たとえば、島根県津和野町の鷺舞(さぎまい)は、京都の祇園祭から直接伝わったとされる芸能で、白鷺に扮した踊り手が優雅に舞う姿は今も津和野の弥栄神社の祭礼で奉納(ほうのう)されています。
津和野の鷺舞は、室町時代に京都の祇園祭から直接伝えられたとされる芸能です。もともと京都の祇園祭でも鷺舞は奉納されていましたが、京都では途絶え、かえって津和野に伝承が残るという逆転現象が起きました。白い羽を広げて優雅に舞う姿は、祇園信仰が地方に根づき、独自の文化として花開いた好例です。このように、都市文化が地方に伝播し、やがて本家とは異なる形で発展していくというダイナミズムもまた、祇園信仰の魅力のひとつといえるでしょう。
博多祇園山笠は、鎌倉時代の仁治2年(1241年)に承天寺の聖一国師が疫病退散のために祈祷水を撒いたことに始まるとされています。現在は「追い山笠」と呼ばれるタイムレースが最大の見どころで、重さ約1トンの舁き山笠を男たちが担いで約5キロメートルのコースを疾走します。2016年にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」のひとつとして登録されました。
津島天王祭は、室町時代から続く愛知県津島市の天王川を舞台にした祭りです。宵祭では巻藁船(まきわらぶね)に365個もの提灯が灯され、川面に映る光の幻想的な景色は「日本三大川祭」のひとつに数えられるほどの美しさです。津島神社は牛頭天王を祀る代表的な神社であり、ここから勧請された天王社は東海地方を中心に広く分布しています。
川越まつりは、慶安元年(1648年)に川越藩主・松平信綱が氷川神社に祭礼道具を寄進したことに始まります。最大の見どころは夜の「曳っかわせ(ひっかわせ)」で、山車同士が出会うと正面を向き合い、囃子の競演を繰り広げます。提灯の明かりに照らされた山車と、最高潮に達する囃子の音は圧巻です。こちらもユネスコ無形文化遺産に登録されています。
石岡のまつりは、茨城県石岡市の常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)の例大祭として行われる祭礼で、関東三大祭のひとつに数えられています。最大の特色は幌獅子(ほろじし)と呼ばれる、幌をかぶった獅子舞が町内を練り歩く姿で、全国的にも珍しい形態です。各町内が競い合うように繰り出す山車と幌獅子が街を埋め尽くす3日間は、関東における祇園信仰の力強さを実感させてくれます。

CHAPTER 07
よくある質問

A.
7月1日から31日まで1か月間にわたって行われます。山鉾巡行は前祭が7月17日、後祭が7月24日です。
A.
祇園祭は八坂神社の祭礼です。八坂神社は明治維新まで「祇園社」と呼ばれており、祭礼も「祇園御霊会」と称されていました。
A.
四条河原町や河原町御池の交差点は「辻回し」が見られる人気スポットです。有料観覧席も毎年販売されます。
A.
八坂神社の氏子の間には、胡瓜の切り口が八坂神社の神紋「五瓜に唐花」に似ていることから、祭の期間中は胡瓜を食べないという風習が伝わっています。
A.
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神とされ、日本では素戔嗚尊(スサノオ)と同一視された神です。疫病を起こす神であると同時に疫病を払う神でもあるという両義的な存在で、祇園社(現・八坂神社)の祭神として長く信仰されました。明治の神仏分離により公式には排除され、祭神は素戔嗚尊に統一されています。
A.
全国各地に祇園信仰に基づく祭りがあります。代表的なものとして、福岡の博多祇園山笠、愛知の津島天王祭、埼玉の川越まつり、茨城の石岡のまつりなどがあり、いずれも疫病退散を祈る祇園信仰を共有しています。

CHAPTER 08
まとめ

祇園祭は、貞観11年(869年)の疫病退散の祈りから始まり、1,100年以上の歴史を持つ日本を代表する祭りです。御霊信仰に根ざした神事としての厳かさと、町衆が守り継いできた山鉾巡行の華やかさが共存する、京都の夏の風物詩です。7月の京都を訪れる際はぜひ足を運んでみてください。
平安時代の御霊信仰から生まれた祇園祭は、牛頭天王とスサノオの習合、蘇民将来の伝説、町衆の文化力、そして全国への祇園信仰の伝播と、日本の宗教史・文化史の縮図ともいえる奥深い祭りです。山鉾の豪華な装飾に目を奪われがちですが、その根底には「疫病から人々を守りたい」という千年以上変わらない祈りがあることを知ると、祭の見え方がまた違ってくるのではないでしょうか。